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2006年6月 4日 (日)

PISAに対する一考

 注:今回の更新は、かなり複雑な内容の上、個人の主観が相当含まれています。興味のない方は、スルーしてください。

 伊豆こもれび茶房」というところで、「PISA」と呼ばれる、国際的な「読解力」を試させる問題が出ていました。
 これは、基本的には高校生レベルに対して出される問題なのですが、相当問題があるものだと思い、記事をあげることにしました。

 ちなみに、「完全版」の文章が入手できなかったため、以下の文章は、「レポート」に記述されたものに対する意見ということになります。
 もし、完全版と大きく食い違うため、前提がおかしな部分が見られるようでしたら、その点はどうかご容赦(あるいは、完全版を提示した上でご指摘)ください。

 このうちの一問に対する要約は、このようなものです。

 「落書き」要約1(2000年調査国際結果報告書所収) 学校の壁の落書きに頭に来ています。社会に余分な損失を負担させないで、自分を表現する方法を探すべきです。若い人たちの評価を落とすようなことを、なぜするのでしょう。建物やフェンス、公園のベンチは、それ自体が芸術作品です。落書きで台なしにするのは悲しいことです。それだけではなくて、落書きはオゾン層を破壊します。この犯罪的な芸術家たちはなぜ落書きをして困らせるのか、本当に私は理解できません。 ヘルガ

 「落書き」要約2   世の中はコミュニケーションと広告であふれています。お店の看板を立てた人は、あなたに許可を求めていません。それでは、落書きをする人は許可を求めなければいけませんか。あなた自身の名前も、非行少年グループの名前も一種のコミュニケーションではないかしら。 しま模様やチェックの柄の洋服の模様や色は、花模様が描かれたコンクリートの壁を真似たものです。そうした模様や色は受け入れられ、高く評価されているのに、それと同じスタイルの落書きが不愉快とみなされているなんて、笑ってしまいます。 ソフィア

 これに対し、問題は、
 「ソフィアが広告を引き合いに出している理由は何ですか」というものです。
 正解としては、広告を落書きの合法的な一形態として考えている、又は広告を引き合いに出すことが落書きを擁護する手段の一つであると考えているが、正解の例として挙げられていました。

 ところが、これは、日本人の感覚からすると、明らかに「おかしな」問題だと思います。

 まず、「人のもの」に対して落書きをすることと、「自分のもの」に対して落書きをすることが、同列で語られている点で、明らかに問題が乖離しているように感じます。
 日本では、「人のもの」に対して落書きをすることは、「器物損壊」に当たるため、そこで議論の余地なく、ソフィアの考えがおかしいとなっても不思議ではありません。

 次に、「落書き」をするのは、果たして自由なのでしょうか?
 日本においては、憲法上、「表現の自由」というのが保障されています。
 ただし、その範囲は無制限というものではなく、「他人の人権」や、「公共の福祉」を害さない限度において認められるものです。
 具体的には、落書きをすることで、他人の「精神の平穏を害されない権利」を侵害することになるため、たとえ自分のものであっても、人から見られるような形で落書きをすることは、問題があると思います。

 それらを総合すると、この問題に対して、日本人の無回答率が高いというのは、むしろ自然なことなのではないかとすら感じられます。

 また、この「PISA」というもの自体に対しても、疑問があります。
 読解力を世界全体で同じ問題で測るため、一見問題がなさそうに見えるのですが、実はこの問題の前提となる考え方が、「欧米諸国」などの、「議論中心」の国に非常に有利な作り方となっているように感じられます。

 もともと、「日本」は、「農耕文化」であったため、周りに合わせていれば大丈夫という風土がありました。
 そのため、「議論」というのは、あまり発達せず、むしろ「協調」が求められました。

 これに対し、「欧米」は、「狩猟文化」であるため、相手に対して適切な表現(狩猟をするためには、チームワークが絶対不可欠です)をすることが求められ、結果として「議論」が発達しました。
 この、文化による違いを、無理やり相手の基準に合わせる必要性が、私にとってはあまり感じられません。

 確かに、国際社会において、「議論」することができないと、対等に渡り合えないと言うのは分かります。
 だからと言って、日本独自の、「ある程度、言葉でいわなくても共通認識で相手に伝わる」という部分を、必ずしも捨てなければならないということは、ないと思っています。
 「議論」で解決すると言うことは、突き詰めれば「訴訟社会」への変化ということになり、むしろ「声の大きくて強いものが正義」という、危険な部分が含まれていると思います。

 確かに、「国際社会」で渡り合う人材には、この能力は必要だと思います。
 ですが、「国民全体」が、このように「議論」によって成り立つ考え方で統一されると言うのは、個人的には相当の不安を感じます。
 現に、アメリカのような訴訟社会は、人と人の関係が「ギスギス」しているように感じられます。

 個人的には、「指標」の一つとはなっても、それに「拘泥」する必要はないと思います。
 人の考えはそれぞれですし、また国民性によっても、ある程度の傾向はあるのですから、この物差しだけで、自国の読解力が劣っていると卑下するのは、間違いだと考えます。

 長文でしたが、私の考えは以上の通りです。
 今回に限っては、多少自分のポリシーに反しても、断定的な部分を加えさせていただきました。

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